五木文庫

五木2

新たな、五木文学発信の地として

五木寛之氏と鈴鹿、そこには小説「冬のひまわり」「旅の終わりに」に見る必然の繋がりがありました。そして、いま、ここに新たな五木文学発信の拠点として「五木文庫 鈴鹿」が誕生しました。

平成19年7月

開館時間午後1:00~5:00
休館日日曜日・月曜日・祝日
閲覧<無料>ご自由に御覧下さい。
貸し出し会員の方に限らせていただきます。(会費2年間で1,000円)

五木さんと鈴鹿

五木2

五木さんがはじめて公【おおやけ】に鈴鹿を訪れたのは1980年(昭和55年)鈴鹿サーキットでのCIVICレースに自分のチーム「五木シビック」を結成して乗込んできたときだと思う。

以来毎年のように8時間耐久レースを観戦、SUZUKAを舞台に『冬のひまわり』を書き、F1グランプリ前夜祭のイベントに文化会館で「論楽会」を5年間も連続開催、郷土出身の明治文壇の鬼才斎藤緑雨、鎖国にロシアを見た男大黒屋光太夫、無形文化財伊勢型紙等々の「本物性」に興味をもってそれらをあらゆる機会に国の内外に紹介するなど鈴鹿の文化振興を願う当市の牽引役を果された。

光太夫をえがいた井上靖著『おろしや国酔夢譚』の映画化への協力、「ソフィアの歌」のルーツ研究、「ソフィアの子守唄」作詞作曲をはじめ光太夫に関わるものを内容とする文筆活動を展開、鈴鹿をいろんな分野で取上げて下さった。また当市の姉妹都市にル・マン市を市長に紹介したのも五木さんだった。

五木さんが随筆にも書いているが、経歴は学費が払えず早稲田大学を退学し除籍と言っていられたが、鈴鹿で青年市長会が開かれた時のこと、同じ稲門(早稲田出身者)の市長(当NPO会長)に講師に招かれた五木さんと小山宙丸総長が会い、未納だった月謝を納めることによって晴れて(?)中退と名のることができたという微笑ましいエピソードも鈴鹿でのことであった。

氏が選考委員長をつとめ、世間からユニークな文学賞として脚光を浴びた「斎藤緑雨賞」もその後の行政により廃止、市立図書館に「五木文庫」をとの約束も、五木さんから著書を送りつづけてもらっていながら反故にしてしまい、まさしく鈴鹿文化の大きな後退となって市民を嘆かせた。

そんな五木さんが鈴鹿国際大学教授として最後の講義を終えたあと「五木文庫は行政に任せないで龍光寺の一隅にでも」と語られたことが、私たちをして同志とNPOを立ち上げ、運営することになった。

これは鈴鹿市民としての五木さんへの恩返しの気持であり、地域の文化や文学への道の入り口になればと思う。幸い図書館では何ヶ月も待たねば読めない氏の新刊本が此処には何処よりも早く届いており、それも10冊ずつ揃っていてすぐにでも読むことができるようにという五木さんの提案であり厚意でもある。

お気楽にご来館くださりご利用いただけたらとお待ちしています。

五木寛之年譜(鈴鹿市関連)

1980年(昭和55年)
鈴鹿サーキットでCIVICレースにチーム「五木シビック」を作り参戦。
1983年(昭和58年)
鈴鹿サーキットで初めて「8時間耐久レース」を観戦。
1984年(昭和59年)
ホンダ社報(1月号)に『民族の祭典-鈴鹿の夏に思う』を執筆。
2度目の8時間耐久レース観戦に来鈴。
1985年(昭和60年)
鈴鹿サーキット(ホンダランド)社報(10月1日号)に『鈴鹿、奇蹟の夏に』を執筆。
鈴鹿サーキットを舞台にした小説『冬のひまわり』を小説新潮に発表、新潮社から単行本で発刊。
3度目の8時間耐久レース観戦に来鈴。
1986年(昭和61年)
日刊現代に8時間耐久レースを描いたエッセイ「若者の現在のお伊勢参り」を執筆。
鈴鹿を舞台にした小説『旅の終わりに』をサンケイ出版社より発刊。
4度目の8時間耐久レース観戦に来鈴。
1987年(昭和62年)
5月、衣斐鈴鹿市長(当時)と知り合い鈴鹿のまち創り、まち起こしは文化からと言う市長の考え方に賛同、協力を約束。中でも井上靖作『おろしや国酔夢譚』の主人公大黒屋光太夫、伊勢型紙、明治文壇の鬼才斎藤緑雨などについて熱心にアドバイス。
翌年から「F1グランプリ」が鈴鹿で開催されることが決まったのを機に前夜祭として音楽と文化を論ず「論楽会」を鈴鹿で開催することを市長に提案。
姉妹都市選考中の鈴鹿市に24時間耐久レースで世界的に有名な「ル・マン市」を推挙する。
鈴鹿8時間耐久レースメモリアルソング「風の旅人」発表。
1988年(昭和63年)
第1回鈴鹿論楽会を山崎ハコ(歌手)、山川健一(ロックミュージシャン兼小説家)、徳大寺有恒(自動車評論家)等と開く。
鈴鹿市長の紹介で清水信(文芸評論家)、藤田充伯(「五木寛之論」著者)等鈴鹿の文学グループと出会い、斎藤緑雨賞の創設を提案。
鈴鹿出身の「大黒屋光太夫」を描いた井上靖原作『おろしや国酔夢譚』の映画化に努力、大映の徳間社長を紹介。
1989年(平成元年)
第2回鈴鹿論楽会を開く。
1990年(平成2年)
第3回鈴鹿論楽会を立松和平(作家)、高橋三千綱(作家)、三上寛(シンガーソングライター)、山崎ハコ(歌手)等と開く。
鈴鹿で開催された稲門市長会の講演の際、早稲田大学小山宙丸総長と会談、総長のユニークな提案で未払い授業料(当時納入すべき額)の納入を果たすことで、昭和32年の大学「抹籍」が「中退」となる。
1991年(平成3年)
第4回鈴鹿論楽会を山下健二(ロシア語研究家兼歌手)、新井満(歌手兼小説家)、阿木燿子(作詞家)、ジュリア・J・ヤマコフ(歌手)、山崎ハコ(歌手)等と開く。
1992年(平成4年)
第5回鈴鹿論楽会を開く。
第1回斎藤緑雨賞に「月島物語」四方田犬彦、「浪曲的」平岡正明が選ばれた。
1993年(平成5年)
第2回斎藤緑雨賞に「ルナティックス」松岡正剛が選ばれた。
1994年(平成6年)
4月、鈴鹿国際大学学長勝田吉太郎博士、衣斐市長の要請に応え教授に就任。
第3回斎藤緑雨賞に「ビンゲンのヒルデガルトの世界」種村季弘が選ばれた。
1995年(平成7年)
第4回斎藤緑雨賞に「江戸ふしぎ草子」海野弘、「哲学の東北」中沢新一が選ばれた。
1999年(平成11年)
4月、鈴鹿国際大学客員教授に就任。
2001年(平成13年)
4月、鈴鹿国際大学名誉教授就任(現在に至る)。
2004年(平成16年)
8月、NPO法人SUZUKA文化塾会長、塾長等と「五木寛之文庫」について会談。(於:東京)。
2006年(平成18年)
1月、NPO法人SUZUKA文化塾を訪問、「五木寛之文庫」について会員等と会談(於:龍光寺)。
 
8月、東京にてNPO法人SUZUKA文化塾会長、「五木寛之文庫」準備委員長と打合せ。
2007年(平成19年)
2月、川岸鈴鹿市長、議長、NPO法人SUZUKA文化塾会長等と「斎藤緑雨賞」復活などについて意見交換。