樋口一葉を世に送り、その死後一葉の全集を編修、鋭い小説、評論家明治文壇の鬼才齋藤緑雨はここ鈴鹿の神戸に生まれました。鴎外、秋水、逍遥、露伴、青々園ら文壇の交流は広く、多くの作家からその厳しい論評は恐れられ彼の名なくて文学は語れない人物です。
一葉と同じく常に貧乏でした。惜しまれ、彼自身も「僕本日を以って死にます」と有名な新聞広告を出して若くして世を去りました。
ここに「NPO法人SUZUKA文化塾」は彼の生家の一部を復元し、1階には子どもたちの健全育成、学童の場、また文化振興を願い、夏には五木文庫を開設いたしました。
緑雨亭には貴重な著書や全集、緑雨の書簡などを展示しています。
慶応3(1867)年、鈴鹿市神戸南新町(この文化塾のある龍光寺から東南50メートルの所)に神戸藩典医利光、母のぶの長男に生まれる。本名は賢。ペンネームは正直正太夫ほか多い。9歳のとき父と上京、少年の頃から其角堂永機に俳句を習い上田萬年らと交流。
假名垣魯文の門に入り『今日新聞』入社、社主小西義敬に見出され江戸趣味を身に付け江東みどりの名で『善悪押絵羽子板』を発表。
明治22年読売新聞に代表作の一『小説ハ宗』を発表評論家としての存在感を示す。『油地獄』『かくれんぼ』で小説家緑雨の地位を確立する。
身体が虚弱で常に貧乏を友とし、友人、会社からの借金は多かったが何処となく憎めないものを漂わせていた。
むしろ「世に怖き者無名の菌と正直正太夫なり」とその鋭利な刃物のよう鋭い批評はまさに文壇の鬼才の名に相応しいものでありその対象にされた小説家らに恐れられ煙たがられたが、その痛快なほどの論評と警句(アフォリズム)は時には、尊敬し世話にもなっている坪内逍遥といえども早稲田文学の退廃を懸念した批評は手を弛めないなど時代と、文壇に容赦なく浴びせていった。
その交流は広く深く、中でも親友、井原青々園、幸徳秋水、伊藤宙外、森鴎外、幸田露伴、坪内逍遥らとは私事、論評を問わず手紙などのやりとりも特に多い。
明治29年3月から始めた鴎外、露伴と緑雨の三人が本郷「勧潮楼」での批評「三人冗語」は文学評論界においてもっとも権威あるものといわれる。
ここで、緑雨は樋口一葉の『たけくらべ』に高い評価を与える。間もなく一葉との交流が始まるが共に厚意を持ち始めた頃の運命の厳しさは二人に若死にという宿命を負わせる。もう少し命ながらえば二人は夫婦になっていたはずだ(松本清張『文豪』)一葉の死後、緑雨はその『校訂一葉全集』を渾身の力で(一葉研究家 関札子氏)編集し、そのプロフィールを緑雨自身が綴った程です。
明治37年4月13日、彼の名を抜きにして日本の近代文学は語ることはできないといわれた緑雨も病には勝てず、療養先の鵠沼で知り合った金沢タケらに見守られ37歳の短い生涯を終えた。
「僕本日を以て目出度死去仕候伝々 四月十三日 緑雨齋藤賢」の死亡広告は彼らしく、露伴が「春暁院緑雨醒客居士」と戒名をつけ、本郷大円寺に葬られる。」